みなさん、こんにちは。
いまやバリボリ仕事をしているわたくしですが、1998年4月にパニック障害を発症し、その後4年ほど治療を続けておりました。
自分はどう回復していったのかを書き綴ってみたいと思います。

発症

24歳の若かりしわたくしは、地元のプロバイダでアルバイトをしておりました。
面接の時、社長が最後にこう言いました。

「うちは月曜日から土曜日 9時〜22時が定時だけど来るか?」

プロバイダで働くのが夢だったわたくしは即答

「行きます!」

そういうわけで、月300時間労働をこなしていったわけです。時給1000円なんで、バイト代は30万を超えるほど。
それまで、ほぼ実務未経験でしたら、これだけもらえて、技術が学べ、実務経験もできる。文句なしでした。

ここでの仕事は楽しくて仕方ありませんでした。スタッフもみんないい人。社長も腹黒いけどいい人。
インターネットのアクセスは専用線で128kbps。これは当時としては天国の環境で、わたくしは水を得たトビウオのように仕事をしておりました。
今の自分があるのは、ここでサーバー管理から業務用システム開発まで、経験できたことにあります。
完全に趣味=仕事なので、月300時間なんて苦ともなんとも思ってなかったのです。まさに無双状態でした。

しかし、その日は突然やって来ます。仕事が終わって同僚とご飯を食べて、マンションの自分の家についたのが0時すぎ。
ふと自分の手を見ると真っ青になっていたのにびっくりしました。突然心臓が高鳴りだしました。なぜか分からないのですが、この時はこれだけのことでパニックのようになったのです。急いで自分の家に入りました。
なんかふわふわした感じになり、気分を変えようとシャワーをあびるのですが、心臓の動機はますますはやくなります。これまでに経験したことのないほどのペースで心臓が音をたてます。

「やばい」

と思い、風呂場から飛び出し、電話の受話器を取り、救急車を呼ぼうと思いました。
そこで、少しだけ気持ちが落ち着いてきた気がしたので、受話器をもったまま、深呼吸してみました。

なんとか落ち着いてきましたので救急車はやめにしました。でも、なんともいえない地に足がつかない感じはそのまま残りました。
さっきまで自分が見ていた世界とはまったく異なる世界に来てしまったような感じがしました。

落ち着いてきたかと思うと、波が何度も押し寄せるかのように、ドキドキがやってきます。
その繰り返し。ソファーで仰向けになり、何度も深呼吸をします。
テレビをつけて、気分を変えたりしていると、波は少しずつちいさくなりましたが、地に足がつかない感じは残りました。

それでも出社。そして心療内科へ

ちょっと寝たのか寝ないのか覚えてませんが、翌日はなんとか出社しました。
電車の中でもドキドキがやってきて、脂汗をかきながらです。
昨日まで同じ景色なのに、まったく別の惑星に来てしまったような感覚。不思議です。

わたしは少しピンときていました。これはパニック障害ではないだろうか。テレビで何度か見たことがあるけど、もしかしたら?

その日は、ほとんど仕事にならず、調子が悪いのでといって会社を早退し、家の近所の心療内科に駆け込んだのでした。

診察の結果、ほぼ間違いなくパニック障害であるとのこと。何度か波は襲ってくるけど、だんだん波は小さくなって必ず治ると先生はおっしゃいました。

処方されたのは「ソラナックス」という薬。これを発作が起きそうになったら飲むようにしました。

発作との戦い

ここでふつうの人なら、発作が怖くて外に出られなくなったりするものですが、当時のわたしは今考えるとすごい精神力というか意地というかプライドというか、そういうものが無駄にありましたので、

「こんなもんで負けるもんか」

となりました。でも、シャワーを浴びるのが怖い。あの晩のことを思い出すだけで怖い。
とはいえ、お風呂・シャワーが大好きだったので、このまま引き下がるわけにはいかないのです。
そこで、こう考えることにしました。

「この病気は全部自分の思考が引き起こしているんだ。全部自分が原因なんだ。」

癌などの病気は、自分の思考を変えれば治るというものではありません。
でも、これは自分の思考が引き起こしているんだ。思考を変えれば発作も止まるはず。

さて、この考えが正しいかどうか分かりませんが、そういう気持ちを持って、思い切ってシャワーを浴びてみたら大丈夫でした。
今考えると、この小さな「大丈夫」の積み重ねが大きかったと思います。

外出する時も「発作が起きたって、死にはしないし、倒れたら誰か助けてくれるよ」と言い聞かせていました。

もう一つ、大きな武器は携帯ラジオです。外出するときは、常に携帯ラジオを片手に持ち、イヤホンで聴いていました。
「外出するときは」と書きましたが、家にいる時も寝る時もラジオを大体聴いていましたね。

発作が起きた時は、体の力を全部抜いて、無思考状態にする。という技を身につけました。全部流れに身を任せるって感覚です。

あとは、しっかり通院して、お医者さんのいうことを信じて、がんばりました。
会社はやすまず出勤しました。幸いにも社長がいい人で、「まるちゃんの好きなようにやったらいいよ」と言ってくれて、昼過ぎに出勤というスタイルになりました。
ただ、この頃には結構責任のある仕事を任されるようになっており、少し休んだほうがいいのかなと思い始めていました。

お医者さんは「見えないストレスが蓄積したんだよ。休みの日もパソコン触ってるんだったら、それはやめて、土いじりとか違うことをしたほうがいいですよ」とのこと。

そうです。悩みがないと思っていた自分ですが、自分ですら感知していない見えないストレスがあったのです。

5月には、症状が落ち着いてきて、休みの日には、散歩によく出かけるようになりました。
8月には、母が旅行に北アルプスの立山に連れて行ってくれました。ちなみに母は10kmほど離れたところに住んでいました。わたしを心配して、大自然でも見て気分転換したほうが良いと考えたのでしょう。母と旅行なんて中学生以来でした。24歳で母と旅行とか、今までの自分では考えられなかったんですが、病気が母からの提案も受け入れる心を持たせてくれた気がします。強がっていても、自分1人では遠方まで足を伸ばせなかったので、旅行を機に自信をつけられたのも良かったです。

そして転職へ・・・

回復してきたとはいえ、職場の仕事が結構な負担になっていました。そしてときどき発生する給料の遅配。
勝手ながらわたしは職場を変えることを考えていました。

当時、顧客の一つであるウェブ制作会社へ、ネットワーク機器のメンテナンスにちょくちょくでかけていました。
マンションの一室にあったんですが、めちゃくちゃオシャレな部屋でした。机や椅子や照明器具のセンスが抜群に良いんです。マシンはすべてMacintosh。最新のカラフルなiMacもありました。ケーブルと古いマシンに囲まれたうちの会社と大違い。こんな所で仕事したいなと思っていたのです。

・・・と思っていたら、そこの社長が「うちにこないか」とベストすぎるタイミングで声をかけてくれました。
渡りに船とは、まさにこのこと。11月には、職場に毎週金曜日を休みにしてもらい、金曜日に新しい会社へ行くということをしておりました。
11月のある日に社長にすべてを話し、お許しを頂き、1999年1月より新しい会社に正社員として出勤することになりました。
誠に身勝手でしたが、この環境の変化がわたしには良い刺激となりまして、1999年は発作はほとんど見られなくなりました。

教会へ行くようになり、薬も手放す

それでも、薬はしばらく手放せない状態でしたが、2002年から教会に通うようになりまして、精神的に安定が得られ、薬も手放すこととなりました。

パニック障害になる前は、「自分はなんでもできる。自分が一番正しい」というような心構えでしたが、病気を契機に「自分は自分だけでは何もできない人間なんだ」と考えるようになってきました。教会に行くようになり、「委ねる」ことを覚えました。「自分がどうなろうと、すべては神の御手のうち。どうってことないんだ。」と考えるようになって、かなり楽になったと思います。教会は毎週日曜日。心療内科の先生がおっしゃってた「休みの日は土いじりでも・・・・」にぴったりでした。土はいじりませんけどね。そしていまは教会のホームページを作る仕事を自分でしています。人生面白いもんですね。

まとめ

わたしにとって良かったことです。

  • 発作が起きた翌日に心療内科に行ったこと。
  • 死んでもいいや! と割りきって、あえて外出していたこと。
  • 発作が起きたら、無思考・脱力状態にするという技を身につけたこと。
  • 携帯ラジオを持ったこと。
  • 恵まれた職場環境にあったこと。
  • 思い切って環境を変えたこと。
  • お医者さんの言うことをよく聞いて、治ると信じたこと。

そしていまでも「完治した」とは思っていません。「寛解」というべきでしょうか。
また発作が顔を覗かせるかもしれませんが、そうなったとしても大丈夫。そういう心持ちが大切だと思っています。